ベスト8月号 巻頭言を掲載しました
昭和40年代初期の警視庁独身寮生活
~過激派武装闘争の時代~
株式会社日本公法 代表取締役社長 麗澤大学名誉教授 元中国管区警察局長 元警察庁教養課長 元警察大学校教官教養部専門講師 大貫 啓行 |
ニュージーランドでのモスク連続銃撃テロ(2019・3・15)、スリランカでの教会やホテルへの同時多発爆弾テロ(2019・4・21)と世界を震撼させる事件が続いた。両国の事件に共通するのは、自らの命を捨てた自爆型テロであっ私は昭和42年から45年まで3年余りの間、東京都千代田区の警視庁第一方面単身者用の平川寮に住んでいた。都道府県会館、砂防会館に挟まれ、東京のど真ん中。国会に近く首都中枢部警備の拠点施設でもあった。
厨房は、国会がデモ隊に包囲され孤立するなどの非常時には、警備の警察官に非常食のおむすびなどを用意できるよう、大きめの能力があった。第一機動隊や第一方面勤務員には、選ばれた精鋭集団たる矜持が感じられた。
といっても、20代若者の集団での寮生活。6人相部屋の畳敷きで、先輩後輩の織りなす一種独特の集団といった感があった。警らなど当番制勤務の関係で、部屋で寝るのは、多くて同時に4人だったろう。所属別の寮長などの役職があり、全体の上部役職もあった。寮長は独特の存在で、若き幹部・先輩・親分としての敬意と処遇が感じられた。寮長OBともなれば、その秩序の中ではどちらかといえば邪魔な存在で、別の一室に集められていた。本来なら昇任して転出するか、結婚して出ていくべきなのに居残った、いささか困った者という感じだった。彼らは、自らを「姥捨て山の住人」とか言っていた。
警察庁上級職採用の私などは、他の寮生の秩序にハマらない厄介な存在という点で、寮長OBに似た存在だった。まして階級は採用時から警部補、2年目に警部という別世界の者。本音では邪魔で厄介な存在だったろう。そんな迷惑な存在だったが、長いこと住んでいるうちに、それなりに顔見知りもできれば、部屋に遊びに来るという人もできていた。少なくとも食事は一緒の食堂だった。酔いつぶれて、寮の前の路上で寝込んでいた私を寮員の仲間が担ぎ上げてくれたこともあった。担ぎ上げてくれた彼らは、私を「どうしようもないキャリアだ」とでも言っていただろう。若い時代の大失敗。今はただただ懐かしく、ほろ苦さを伴って思い出される。たまには近くの赤坂見附の飲み屋にも足を伸ばした。寮員の中には、国会議員の秘書を麻雀のカモにする猛者もいた。赤坂見附の酒場では、そうした猛者の話を聞かされた。それらの猛者は、情報収集の道に頭角を現していった。
当時、革マル、中核といったいわゆる過激派武装集団が暴れまくっていた。寮員は、年齢的には同じである学生中心の武装集団と対峙する日常だった。複雑な感情もあったろう。しかも、石礫にさらされることもあった。運悪く頭に当たったら、命に関わりかねない危険なものだった。
普段は酒を飲み陽気な歌も聞かれる寮内だったが、警備出動前夜はシーンとしたものだった。早く寝て、朝には新しい下着に着替えていた。いざという時への覚悟が感じられた。まさに「さらしの褌をはいて出陣」ということ。実際、さらしを身体にしっかり・きつめに巻いていた。万一、石が当たっても防御に役立つという思いだった。警備が終了して帰寮してからの酒宴の荒れ様は尋常でなかった。窓ガラスに飛び込んだ寮員の話も聞いた。そういう時代だった。当時、警備出動で負傷し、一生障害を負って生活した警察官もいる。いや、それにとどまらず火炎瓶投下で3名の警察官が殉職した時代だった(成田空港東峰十字路事件・1971年)。
時代が変わり、武装闘争の頃の話をする人も少なくなった。現役の皆さんには、今のうちにその時代を知る先輩の話を聞いておくべきだ。現在の警備資器材(前方の見える盾など)や装備品(脛あてなど)は、そうした時代の汗と涙がもたらしたものが少なくない。
多くの単身者用寮は、警察署に隣接していた。そこでは警ら課長などが差し入れを携えて訪問し、反省会などの名目で飲み会が開かれていた。警察官行きつけの近所のすし屋などはゲソの大盛5,000円などといえば、驚くほどの大盛を届けてくれた。そうした宴は、署内のうわさ話の宝庫。署幹部の格好の情報収集の場だった。私の勤務した愛宕警察署は、署に隣接した独身寮があり、私はそこでの小宴の常連だった。
当時は、今の個室、プライバシー重視の時代にはない集団としての警察官の濃厚な関係が寮で培われていた。私も当時知り合った警察官との間で、仲人などをするなど一生の付き合いとなった人が少なくない。若い時分の、人との付き合いは貴重なものだ。袖振り合うも多生の縁。まして心の触れ合った人とは、誠意を持って向かい合うことをお勧めする。