ベスト2023年12月号 巻頭言を掲載しました
後輩を育てる伝統
~リアルな人間関係の大切さ~
株式会社日本公法 代表取締役社長 麗澤大学名誉教授 元中国管区警察局長 元警察庁教養課長 元警察大学校教官教養部専門講師 大貫 啓行 |
私が警察官になった昭和40年代初期、現在とはだいぶ違った雰囲気があった。当然のことながら、現在では当時の様子を話す人は少なくなってしまった。私は戦争のことをかすかに記憶に留める最後の世代の人間なのだろう。夜を徹して燃え上がる東京大空襲の赤い火を、疎開先の大宮郊外で遠くに見た記憶が僅かに残っている。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックは大学生として経験した。大学の運動場が外国人選手の練習場になった。大学構内の学生寮に居住していたのだが、朝寝していたら、突然、粉状消毒の煙でいぶりだされた思い出がある。オリンピック直後の東京は活気に包まれていた。そういった時代に、私の警察人生は警視庁での見習い勤務からスタートした。
警察庁/警視庁の幹部の大部分は兵役経験者だった。彼らには、死線を乗り越えた独特の凄み、迫力があった。皆、腹が据わり、それぞれが個性的だった。警察庁幹部は、いわゆる内務省採用者であり、天下国家を論ずるといった気概に満ち満ちていた。「日本国をどう経営するのか。どういう国にするのか。」といった議論が盛んだった。「その根底にあるのは治安だ」という信念が感じられた。
内務省では、採用間もない若手でも先輩からそうした気概をもって学ぶことを求められていたそうだ。時には、先輩は後輩を引き連れ、飲み会に繰り出した。当然のように支払は先輩。いわば親分格の先輩を囲んだ一党の様相を醸し出していた。
ある日の夕刻、突然、警視庁刑事部長の土田先輩から部長室への招集がかかった。採用後2年目、警視庁で“見習い勤務”(採用から3年半ほどの期間の警察庁採用者のいわば研修期間)の同期3人が「それっ」と、部長室に馳せ参じた。土田先輩は、ワイシャツ姿の私たちを一喝。「どんな時でも背広の一着くらい準備しておけよ。」「ホテルでフランス料理でも食わせる予定だったが、その格好ではビヤホールだな。」との説教を食らわせられた。おそらく初めからビヤホールと決まっていたのではないか?などと思ったものだった。
その夜にごちそうになったことよりも、今でも記憶に残るのは、この一喝。それと幹部としての教訓だ。幹部たるもの、「血刀を翳し敵陣に切り込む気概」を持たなければならない。
警察庁の前身である内務省に採用間もなく、海軍に招集され、乗った艦が沈没、部下に浮き輪を譲り、自らは海中に飛び込んだ、……といった土田先輩の話などに圧倒された。土田先輩は警視総監を務められた後、防衛大学校長となった。何度か京浜急行で防大校長官舎にまで押し掛けて、お話を伺った。土田先輩に限らず、内務省採用者(兵役経験者)の先輩方には、後輩育成に対する強い情熱があった。
警視庁などの各都道府県警察には、それぞれの梁山泊集団があった。良い意味でも悪い意味でも、それら集団の力は無視できなかった。警視庁では、鹿児島出身者の集団の団結が強かった。鹿児島出身者は、採用前から郷土の先輩を頼ったものだといった話がまことしやかに語られることがあり、「鹿児島署長に茨城巡査」といった明治維新の余韻が感じられたものである。
同郷会も全国各地に及んでいた。警察庁採用の私たちも、それぞれの同郷仲間として迎えられていた。職場仲間の懇親会も盛んだった。それらの多くは転勤後も続き、しばしばOBの姿もあった。そうした場は、とにかく人間関係が濃厚であり、後輩が学ぶ絶好の場でもあった。その煩わしさが煙たがられたのか、次第に下火になっていった。それに、当時の警察社会では酒の量が異なっていた。今では、飲み会に行く機会そのものが減ったと聞く。
令和の時代はどんな時代になるのだろうか。生まれながらのデジタル世代、いわゆるZ世代が加わった組織における人間関係の変化も注目される。新しい時代においても、組織では「先人の知恵の継承」が大切だ。先輩が後輩を育てるという警察の伝統は大切にしてほしい。