巻頭言

2024.06.01
巻頭言

ベスト2024年6月号 巻頭言を掲載しました

現実外交に欠かせないバランス感覚
~キッシンジャー博士の教訓~

株式会社日本公法 代表取締役社長
麗澤大学名誉教授
元中国管区警察局長
元警察庁教養課長
元警察大学校教官教養部専門講師
大貫 啓行

 アメリカの国務長官や大統領補佐官(安全保障担当)として、見事な立ち回りで数々の実績を上げたキッシンジャー博士は、昨年11月に100歳で亡くなった。代表的な実績として米中国交への道を切り開き、ベトナム戦争を終結させたことが記憶に残る。間違いなく戦後冷戦期の最も優れた外交官だった。
 彼に学ぶ教訓には、どういったものがあるだろうか?

 現実の外交において、一方が100パーセントの勝利を手にすることはない。そこでは、双方に納得される解を探し出すバランス感覚と懐に飛び込む勇気、優れた説得力が必要とされる。
 外交において美学はむしろ足かせとなる。理想主義者は正義に縛られ、相手の正義と衝突する。正義を言い分と置き換えてもいい。

 警察官の感覚とは全くの異質な世界。警察官の皆さんから批判される世界でもある。
 筆者は留学や外務省出向中に外交官と様々な議論をした。その折、外交には100パーセントの勝利はありえない。言い分が51パーセント通れば良し、とする感覚の現実論がよく聞かれたことを思い出す。相手にも相手の立場がある。49パーセントは譲るのが良いという感覚。

 戦争は外交の延長線上にある。戦争はお互いの正義と正義、言い分と言い分のぶつかり合いなのだ。終わらせるには、どうしても両者の妥協が必要になる。とことんやって無条件降伏をさせるのは最悪だ。犠牲があまりに多くなる。
 外交(戦争)はプラグマティックでなくてはならない。外交の本質は、両者の折り合いをつけることなのだ。優れた外交官は理想主義者からは批判の対象になる。全てを交渉のテーブルに乗せ、双方の相中を探すペテン師扱いもされる。

 現在進行中のウクライナ戦争について、最晩年のキッシンジャー博士はクリミアをロシアに譲っての停戦を主張したが、それを批判する人も多かった。侵略者に褒美を与えることへの、正義に反するとする感覚からの批判だ。
 プラグマティストの発想は、「それでなくては停戦することはできない。双方の犠牲者が増えるだけだ。」という発想なのである。そして、勝った負けたでなく、戦いを終わらせるには多少の譲歩が必要という計算になり、ロシアに一定の勢力圏を与えるしかないという判断となる。「国家間の関係に絶対の正義はない。折り合いの付け所だ。」という発想がキッシンジャー博士の本質とみる。

 価値観外交という正義をかざしての妥協なきスタンスでは、実際の戦争を終わらせることはできない。昨今では、イスラエルとパレスチナの正義の違いが多くの犠牲者を生んでいる。優れた現実主義者の不在は悲惨だ。戦場での犠牲者は日々増えていくことだけは間違いない。ウクライナ、イスラエルの出口のない泥沼状態にキッシンジャー博士は何を思っているだろうか。
 戦争は起こってしまったら終わらせるのが実に難しい。何としても外交の段階で収めなくてはならない。

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